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ラホール王宮絨毯

パキスタンのカーペット産業の歴史的起源

この論文は、パキスタン政府機関発行の『PAKISTAN HAND-KNOTTED CARPETS』の記事を参考にさせて頂いたものです。

歴史ある製織の中心地

パキスタンを構成する諸地域は、歴史的に、南亜大陸における手織り絨毯の名産地として世界中に知られている。しかし、その中心が「ラホール」である事実は意外に認知されていないようだ。
ラホールは、ムガール王朝アクバル大帝がこの地で絨毯を生産するために、イランから職人を呼び寄せた500年前から変わらない地位を保っている。


当初は、原型であるペルシャ絨毯の複製にしかすぎなかったが、時が経つにつれ、ラホールの絨毯生産者は、ペルシャのデザインとモチーフを改変し、さらに特有の色合いや風味を加えた独特のモチーフや花のデザインを発達させ、伝統的なペルシャのデザインとともに用いた。象やカーネーションの描写は明らかに特有の発想を示している。

当時の高品質な絨毯は、1インチ四方に2000ものノット(結び)が施され、さらに使用されたウールが非常に高品質だったために、絹製品と間違えられるほどだったという。貿易商リチャード・ベルは、1637年に自分のために特注で絨毯を織らせたが、のちに会社に寄贈された。このカーペットは現在はロンドンのガードラー社の所有となっている。

歴史的つながり

中央アジアとパキスタン諸地域の人々は、歴史的に深いつながりを持ち、パキスタン北部のカイバル峠を通って、部族や集団が定期的に両地域を往来した。
スキタイ人、パルティア人、ペルシャ人、クシャン人、フン族など中央アジアからの人々が、パキスタンに何千年もの間に移動してきた。特にフン族は、必然的に独自の芸術や文化的工芸品を持ち込んだ。中央アジアでどこよりも早く絨毯の生産を発達させたフン族との出合いはこの地に大きな影響をもたらした。
パサン族やバルーチ部族民は、中央アジアの雪に覆われた山岳地帯に住む遊牧民と社会的・文化的に接触があり、類似した気候条件下にあったことから、彼らは急速にそして巧みに絨毯の生産技術を修得した。これらの地域では、キリムが何千年ものあいだ織られ続けていること、また、必ず覆いを施した床に座る伝統があることも知られている。
およそ2000年前には、パキスタンの北部がペルシャの一部であったことも絨毯との重要なつながりの一つだ。その結果、この地域全体で共通した文明が栄えた。タキシラの町が興り、ギリシャの侵攻後「ガンダーラ文明」として知られているギリシャと仏教の融合文明が繁栄し、遠いこの地域に大きく影響を及ぼした。この時代の芸術や手工芸の多くが民衆のものとなり、絨毯生産もそこに存在していた。

インダス文明

約5000年前にパキスタンのシンドやパンジャブ地域で繁栄した世界最古の文明の一つが、インダス文明である。モヘンジョ・ダロやハラッパ遺跡での発掘は、インダス文明の人々が紡錘の使い方を知っており、多種多様な製織品を紡いでいたことを明らかにした。事実、歴史学者の中には、インダス文明が織布を最初に発達させたという見方をする者もいる。モヘンジョ・ダロで発見された壁面レリーフやテラコッタ製の彫像がショールだけでなくラグのような床敷物が広く使用されていたことを示している。絨毯生産技術がここで最初に発達し、周辺地域や中央アジアへと広がっていったのであろう。
織布の伝統はパキスタンの様々な地域で、民族文化として存続している。我々の民族文化に特徴的な織物デザインは、絨毯デザインの基礎である花や幾何学模様を示している。これにより、絨毯生産とデザインの技術が非常に古くからこの地に存在していたということが明らかである。

イスラムの歴史における手織り絨毯

絨毯生産技術の発達は、バグダット・ダマスカス・コルドバ・デリー・ラホール、そして中央アジアの伝説的な都市にいち早く根付いたイスラム文明と密接に関係している。花・葉・巻きひげ状・渦巻き状などの複雑な模様で構成された、よく知られている絨毯のデザインは、動物や人物の肖像表現を嫌うイスラム教の文化的影響下で発達した。アラブやペルシャの文学中での絨毯への言及は数知れない。「カリフ・ハルーン・アル・ラシャド」の宮殿は、数え切れないほどの絨毯を所有していたという。絨毯生産は、基本的にイスラムの遺産であると同時に、イスラム教とともにこの地域にもたらされた最初の手工芸品である。 
歴史学者は、現在パキスタンを構成している地域に絨毯生産が導入されたのは、千年前まで遡り、最初のイスラムの征服者である「ガズナビ」と「ガウリス」によってであると考えている。のちにイスラムのムガール皇帝たちが織職人を連れて来て、絨毯生産の中心地を興した。ラホール・ムルタン・ハイデラバード、インドのアーグラー・ミルザプール・ジャイプールといった都市は、それらの絨毯によって有名になったのである。
全体を通じて、それらの絨毯は基本的にイスラムの特徴を持つ。絨毯生産を支援したのはイスラム・ムガールの王たちであり、ノットをデザインへと織り込み、自国を越えて評判と名声を獲得したのはイスラムの織職人たちであった。
歴史的見地からすると、パキスタンおよびイランを含む中央アジアの絨毯産業はどれも同じ源泉から着想を得ており、どちらが元祖でどちらが模倣だとは言えない。

ラホールの絨毯

ムガール帝国の王たちは芸術と文化の偉大な支援者であった。彼らが高度に洗練させた美意識を持っていたことは、当時の考古学的遺物から明らかである。彼らはラホールに宮殿を建設し(Lahore Fort ユネスコ世界文化遺産に登録されている)そこに持てるすべての技術と芸術を注ぎ込んだが、特に絨毯生産を推進した。
第四代皇帝「ジャハンギール」やその長男で第五代皇帝「シャージャハーン」といったムガール国王たちのために創られた絨毯は最高品質のものであった。15~16世紀にラホールで生産された絨毯は名声を博し、いまだパキスタンや外国人収集家の私的所有となっている。中には絹の縦糸に、1インチ四方に2600ノットという驚異的密度を有するものもある。またロンドンをはじめ各地のミュージアムに所蔵されているこの時代のラホールの絨毯は少なくない。一説によれば、この時代ムガール帝国は、ラホール周辺に1000の工場を設け、ショールと絨毯を生産した。それに特産の綿や香辛料を加え、二万五千頭のラクダを要して、遠くヨーロッパまで売り歩き富を築いたと言う。
ラホールに於ける絨毯産業の発達を歴史的に見ると、5000年前のインダス文明の織布文明に端を発し、そして数千年間に渡る、中央アジアやペルシャとの人的往来によって持ち込まれた敷物の文化と技術が育まれてきた矢先に、ムガール帝国アクバリ大帝の先見に満ちた国策が加わって巨大産業に発展し今日に至ったものである。 

ムガール時代の高密度なパキスタン絨毯(メトロポリタン美術館蔵)

ラホール王宮絨毯

パキスタンイスラム共和国は、戦後(1947年)インドから独立した、まだ歴史が浅い国家だ。しかしインダス文明発祥の地であり、絨毯産業もイラン、中央アジアと源泉を同じにする元祖の一つである。この偉大な文明歴史を背景にしてパキスタンで生産される絨毯を、誕生してまだ若い国名のパキスタン・・とするには何か軽すぎるように思えてならない。イラン産はペルシャ絨毯。トルコ産はアナトリア絨毯として、時代背景とマッチする呼び方が定着していて納得しやすいものだ。
「ラホール」は、2000年の歴史を誇る古都で、紛れもなくこの国の絨毯産業の中核を成してきた。何よりラホールは、ムガール王朝が三代に渡り王宮の建設と絨毯事業を結びつけて発展させてきた事実がある。現存する宮殿「Lahore Fort」はユネスコの世界文化遺産に登録され、今や観光スポットとして大変にぎわっている。こうした検証から、パキスタン絨毯は「ラホール王宮絨毯」と称することがふさわしいという思いに私は達した。 

株式会社ガンダーラ 代表取締役 畠山 信義